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“旧1万円札”が財布にあるうちに知っておきたい「福沢諭吉ってどんな人?」

“旧1万円札”が財布にあるうちに知っておきたい「福沢諭吉ってどんな人?」

昨年7月からスタートした新紙幣の発行により、お札の肖像画としては歴代最長、実に40年にも渡って“1万円札の顔”を務めた福沢諭吉も、ついにお役御免。日頃の買いものやATMでも、キラキラまぶしい渋沢栄一が混じる割合が日に日に増えてきましたよね。
そこで今回は、そんな去りゆく旧紙幣への惜別の意味も込めて、今年が実は生誕190周年の節目でもある“知の巨人”福沢諭吉をあの名物番組『知ってるつもり!?』になぞらえてご紹介。老若男女を問わず、日本中から「ユキチ」と呼ばれ、親しまれた“お札の顔”の知られざる素顔に迫ります。

著書『学問のすゝめ』とあの名言は有名だけれど……

福沢諭吉と言えば、なんと言っても『学問のすゝめ』。その書名と有名な「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」の書きだしは、ほとんどの人が学生時代に“試験に出る用語”のひとつとして、丸暗記したのではないでしょうか。

ただ、このフレーズ。世間にはさも「福沢諭吉の名言」であるかのように浸透していますが、実は1776年に採択された『アメリカ独立宣言』の序文を、彼が翻訳して紹介したもの。くだんの『学問のすゝめ』の冒頭でも、『「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり』と、きっちり伝聞調で書かれています。
なお、「天は~造らず」が一人歩きしすぎたせいで、「福沢諭吉=人間の平等を説いた人」と思っている方もおそらく多いと思いますが、それも大きな誤解。
実際の本文でも諭吉は、「されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや」と現実社会における格差の存在を指摘。だからこそ、その“雲泥の差”を生まないためにも学問をするべきだ、と説いたのです。

ちなみに、明治期を代表する大ベストセラーとなった、この『学問のすゝめ』。当時の総発行部数は、初版刊行から8年後の1880(明治13)年に、諭吉自身が試算したところでは「およそ70万冊」にものぼったとか。
一般庶民に、まだ読書という習慣がなかった時代。その頃の日本の総人口が約3500万人だったことを考えても、いかに“爆売れ”だったかがわかります。

「攘夷」の嵐が吹きあれても徹底して貫いた“非戦”

子どもの頃から血を見るのが何より苦手だった諭吉は、蘭学を学んだ緒方洪庵の『適塾』時代も、同門の多くが医学を志すなか、手術や解剖にはノータッチ。
適塾でともに学んだ長州藩の大村益次郎(村田蔵六)ら、多くの若者が血気盛んに「攘夷」を唱えはじめるなかでも、否が応でも血を見ることになる戦争や政局への加担は断固拒否。“非戦”の姿勢を貫き通したことでも知られます。
その徹底ぶりは、いよいよ世間がキナ臭くなってきたと見るや、すぐさま江戸の自宅にあった10本近くの刀剣類を「馬鹿馬鹿しい」とまとめて売却してしまうほど。
あらぬ嫌疑をかけられることのないよう、維新後の明治5、6年までは、用心のため夜間に出歩くことさえ決してなかった、とも語っています。

ただ、そんな“戦争嫌い”の諭吉も決して臆病というわけではなく、むしろ肝は誰より据わっていたよう。
口では「戦争が始まったらすぐ逃げる」と言いながらも、いよいよ江戸も戦場に……と市中が大騒ぎになっているなか、逆に「安い手間料で人手は幾らでもあるから、普請は颯々と出来る」と、新校舎の建設にも着手。
寛永寺に彰義隊が立て籠もった上野戦争の折りには、アームストロング砲の砲撃が鳴り響くなか、「二里も離れて居て、鉄砲玉の飛んで来る気遣いはない」と我関せずを貫き、粛々と経済学の講義をしていたと言われます。

ちなみに、現在の三田キャンパスはかつて旧島原藩邸の中屋敷だった場所。

元来、政治とは距離を置いていた諭吉でしたが、明治政府から警察制度についての講釈を頼まれて、渋々受託。その際の交換条件として彼が出したのが、政府に接収されていたかの地の権利を格安で譲り受けること、だったのです。

“慶早”は永遠のライバルも大隈重信とは大の仲良し

ところで、現代における慶應義塾大学のライバルと言えば、日本屈指の難関私大として並び称される、言わずと知れた“都の西北”早稲田大学ですよね。

とりわけ、野球の“慶早戦(一般的には「早慶戦」ですが)”は、プロ野球より古い歴史を誇る六大学野球の“華”とも言える伝統の一戦。

1906(明治36)年秋に、慶大の麹町グラウンドで開催された初の対抗戦には、練習試合にもかかわらず、3000人もの観客が詰めかけたとも伝わります。

そんなライバル関係にある両者ですが、その創設者たる諭吉と大隈重信は、実は大の仲良し。“同族嫌悪”もあったのか、当初はお互いを「気にくわない」「生意気だ」と毛嫌いし合っていたようですが、いざ実際に会うや、たちまち意気投合。お互いの家を行き来しあって、夜ふけまで話し込むこともあったと言います。

大隈重信『近世名士写真』其2,近世名士写真頒布会,昭10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3514947 (参照 2025-02-04)

実際、大隈の側近だった矢野龍渓(文雄)も、その著書『大隈侯昔日譚補』のなかで、「一方は学者であり、一方は政治家であると云うだけで、その性格はよく似ている。おそらく福澤先生を政治家にすれば大隈重信であり、大隈さんを学者にすれば福澤諭吉が出来たろうと思われる」と評しているほど。
1882(明治15)年に開校した東京専門学校(現在の早稲田大学)の設立にも諭吉は全面的に協力し、その開校式にも自ら列席しています。

ちなみに、当の諭吉自身は、明治随一の教育者として、他に商法講習所(現在の一橋大学)や神戸商業講習所(現在の神戸大学など)、専修学校(現在の専修大学)など数多の学校設立に尽力。自ら創刊した『時事新報』は、1936(昭和11)年に休刊するまで、戦前の五大新聞に数えられるほどの有力紙として知られました。

欧米の文化をいち早く“いいとこ取り”した先見性

勝海舟やジョン万次郎らと、幕府の保有する軍艦『咸臨丸』で海を渡った初の訪米以来、アメリカやヨーロッパを何度も訪れて、その先進性にじかに触れていた諭吉は、その考え方も“明治男”とは思えないほどスマートで合理的。
アメリカに自ら志願して渡ったのも、開港直後の横浜を訪れた際に、これまで修めたオランダ語では「店の看板も読めなければ、ビンの貼紙も分らぬ」事実に直面。「これからは英語だ」と一念発起したことに始まります。

またプライベートでは、初訪米時に「女尊男卑」と衝撃を受けた、かの地に根づくレディーファースト文化に触発されてか、若い頃から大酒飲みではあったものの、遊郭通いなどは一切せず。その行状から「結婚式にふさわしくない」とまで言われてしまう渋沢栄一と違って、愛人を囲うようなことも終生なかったと言われます。

さらに言えば、“忠君愛国”を旗印に国を挙げて富国強兵政策を推し進めていた明治のご時世に、男女平等の観点から「西洋の語に之をスウィートホームと云ふ、楽しき我家の義にして」と、堂々と家庭の大切さを説いたのも諭吉ぐらいのもの(「家庭」という言葉を広めたのも、そもそも諭吉だったりします)。
1885(明治18)年の新聞連載『日本婦人論』では、結婚後はそれぞれの親の家から独立すべき、という趣旨で、「結婚に際しては夫婦の姓の一文字ずつを取って新苗字を創るべきである」とまで書いています。
明治憲法(大日本帝国憲法)さえまだなかった140年前の当時に、他ならぬ福沢諭吉が、いまも喧々諤々の議論が続けられている“選択的夫婦別姓”の上をいく“夫婦新姓”を唱えていたなんて、ちょっと驚き。幕府の終焉からたった数年で、そんな考えに思い至るというだけでも、とんでもない先見性の持ち主ということがうかがえます。

著作権からベビーカーまでぜんぶ諭吉が“日本初”

欧米歴訪を通じて、数多の新しい概念を持ち帰って紹介した諭吉は、物理的にもこれまでなかった“新しいもの”を日本に浸透させています。
いまや当たり前の「著作権」の概念も、先の『学問のすゝめ』出版時にいまで言う海賊版“偽版本”に悩まされた彼が、「copyright」を「著作権」と訳して、いち早く取り入れたもの。店ごとにバラバラだった帳簿の書式統一には、西洋式簿記の教本『帳合之法』がひと役買いました。
他にも、子どもたちへのおみやげとしてアメリカから持ち帰った乳母車が、その後スタンダードとなるベビーカーの原型に。初訪米時には、現地の写真館で店主の娘と記念撮影。それが“日本初のツーショット写真”になったとも伝わります。
また、それまでは、盆暮れの付け届けや“お心付け”で師範に感謝の意を表すのが一般的だった学問の場に、“月謝=授業料”という一律明快な概念を持ち込み、職業としての教師を正式に雇用したのも諭吉の慶應義塾が初。

面白いところでは、「V」の入った言葉の表記に「ヴ」の文字を最初に当てる“発明”をしたのも数多の翻訳を手がけた諭吉ですので、彼がいなかったら、東京ヴェルディも、ヴァンフォーレ甲府もなかった可能性さえありますよね……。

余談ですが、いまやそのまま「コンペ」などとも使う「competition」を「競争」と訳すのも、経済書の翻訳を幕府から頼まれた彼によるもの。これを役人たちが、本題とは無関係な「争うという文字を御老中にお目にかけるわけにはいかぬ」という理由で突き返してきたことが、幕府に心底愛想を尽かす要因になったとも語っています。

渋沢栄一や北里柴三郎ら新紙幣の“顔”とも親交

最後に、諭吉らに替わって新紙幣の“顔”となった偉人たちとの親交についても少し。
千円札の北里柴三郎は、ペスト菌の発見などで功績のあった“日本細菌学の父”として有名ですが、その研究拠点となった伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)は、諭吉の支援で設立されたもの。彼の名を冠した北里研究所(現在の北里大学)も、諭吉が設立に携わった土筆ヶ岡養生園を源流とする学校です。

ちなみに、現在の慶大に医学部が設置されているのは、恩師・諭吉への“恩返し”のために奔走した北里の猛プッシュがあったから。諭吉の死後16年を経た1917(大正6)年に念願叶えた北里は、医学部の初代学長にも就いています。

また、諭吉は“資本主義の父”渋沢栄一とも親交があり、1894(明治27)年の日清戦争開戦時には、「出征兵士の家族支援」と「戦病死者の慰問・弔問」を目的として共同キャンペーンを展開。諭吉が自身の新聞「時事新報」で必要性を訴え、それを受けて渋沢が企業から寄付金を集める、という連携プレーを見せています。

もっとも、『論語と算盤』で有名な渋沢は、文字通り『論語』を人生の教科書としてきた人物。利害の一致をみた際には“共闘”もしましたが、「日本国中の漢学者は皆来い、乃公(おれ)が一人で相手になろうと云うような決心」で、論語などをコキ下ろしてきた諭吉だけに、基本的な性格は相容れなかったかもしれません。

これを読んで俄然興味が出たという読者のみなさん、諭吉本人の語りを聞き書きでまとめた自伝『福翁自伝』は、めちゃくちゃ面白いので、オススメです。
自分の父親も漢学者だったにもかかわらず、漢学者に対しては「こんな奴等が二千年来垢染みた傷寒論を土産にして、国に帰て人を殺すとは恐ろしいじゃないか。今に見ろ、彼奴等を根絶やしにして呼吸の音を止めて遣る」と、さらにボロクソに言っていたりもする意外なまでにアグレッシブな一面を垣間見ることができます。

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