ソフトバンク・和田毅投手の引退表明によって、NPBの現役選手はついにゼロ。2024年は一時代を築いたあの“松坂世代”にとっても、大きな節目となりました。そこで今回は、この春、21年間勤めた日本テレビを退社し、フリーになった上重聡さんにインタビュー。一般的には“勝ち組”とされるキー局アナウンサーの約束された“安定”を捨て、あえて実力がモノを言うフリーランスの世界へ飛び込んだその真意を、ご本人に聞きました。
文/鈴木長月
上重聡さん プロフィール
かみしげ・さとし/1980年5月2日、大阪府八尾市生まれ。地元の強豪『八尾フレンド』から平石洋介(元楽天)とともにPL学園入り。98年夏の準々決勝、松坂大輔擁する横浜高との延長17回の死闘で名を馳せた。その後、立教大では、六大学史上2人目の完全試合を達成も、プロ入りを断念。この春、21年勤めた日本テレビを退社し、フリーアナウンサーに。
フリー転身はまさかのノープラン
――他媒体でのインタビューなどを拝見すると、退社を決断された時点ではまったくのノープランだったとか。組織の後ろ盾がいきなりなくなることに不安などは?
上重 もちろん不安はありました。ただ、どうしようかと迷っていたときに、ちょうどメジャー挑戦を決めた山本由伸投手(現・ドジャース)や今永昇太投手(現・カブス)の記事を読みまして。彼らがそこで語っていた「やらないで後悔するんだったら、やって後悔したい」みたいな言葉にすごく感化されたと言いますか。それがそのまま「おまえはどうなんだ?」と自分にも問われている気がしたんです。
――やはりそこでも後押しをしてくれたのは、野球でしたか。
上重 踏みだす勇気がなかなか出なくて、この歳までズルズル来ちゃいましたけど、仮に挑戦するとなっても、いまこのタイミングを逃したら、年齢的にも次はない。だったら、どうせ人生は一度っきり。ここはもう行くしかないのかな、って。私自身は独身なので、家族に迷惑がかかるなんてことも考える必要はなかったですし。
――そもそも、ご自身のなかでの最大の動機は何だったんでしょう?
上重 つい先日も「手に汗をかくようなことって最近ほとんどないよな」なんて話を松坂(大輔)としたんですけど、いちばんは純粋にもっとドキドキしたかったんですよね。20年以上も同じ会社にいると、刺激もだんだん薄れてきて、よくも悪くもマンネリ化はしてしまう。会社員として将来が見通せるというのは、確かに安定・安心ではあるんですけど、“先が見える”からこその物足りなさというのもどこかにあって。
――40代ともなれば、組織においては“中間管理職”的な役割も求められますしね。
上重 人に物事を教えるのは、自分へのフィードバックにもなるからむしろ好きですし、後輩を自宅に招いて手料理を振る舞うといったことを以前からよくしていて、自分でも面倒見はわりといいほうだとは思うんです。ただ、それまで自分が任されていた仕事まで若い世代に譲れるか、と言ったらそれはまた別で(笑)。要はプレイヤーとしても「自分はまだ負けていない」ってことを証明したくなったんです。
――“コーチ兼任選手”になる気はまだない、と。ただ、そうであればなおさら関係者への根回しだとか、そういったものも必要だったのでは? 場合によっては、FA宣言をしたのに、どこからも声がかからない「セルフ戦力外」的な可能性もあるわけで。
上重 根回しだけをがんばっても、たぶん成功しないなと思ったんですよね。お声がかかったらいいな、みたいな淡い期待も心のどこかにはありましたけど、一方ではマウンドに上がれさえすれば、それなりに結果を残せる自信もあった。決めた以上はたとえひとりでもやるって覚悟も、最初からしていましたしね。まぁ、おかげでゴールデンウィークあたりは本当に仕事がなくて、帯状疱疹になりましたけど(笑)。
――身体は素直に反応してしまった、と。そんな状況からご自身ではどう切りかえを? アナウンス歴20年となれば、もう大ベテラン。自負やプライド、それまでに積み上げてきたものの重さを考えると、開き直るのも並大抵のことではないですよね?
上重 イップスを発症した大学生のときに、自分ではどうにもできなくなって、実家の両親のまえで「野球を辞めたい」と大泣きしたことがあったんです。でも、そうやってはっきり口に出してみたら、それまで抱えていたネガティブな気持ちがスッと軽くなって、自然と前を向くことができた。結局はそういうことだな、というのがあったんですよね。格好ばかりつけて、なんとなくで自分を誤魔化しても、いいことなんてひとつもない。本当のことなんだから「仕事がない」って言っちゃえばいいやって。
※イップス…心理的な要因により生じる運動障害。ある日突然まともにボールが投げられなくなるといった諸症状に苦しむ選手は、プロ野球界にも少なくない。
戦略的な“自虐”でまずはきっかけを
――だとすると、ネットニュースやSNSでも反響を呼んだ『ダウンタウンDX』などでの“自虐キャラ”も、ご自身のなかでは少なからず計算ずくだったところも?
上重 5月は実際に仕事がなかったので、ぜんぶとまでは言いませんけど、ぶっちゃけ、多少は戦略もありました。そもそも私の退社は、大先輩の藤井(貴彦)さんや、局は違えど同期でもあるNHKの青井(実)くんと同じタイミング。しかも、転身後すぐに、藤井さんは同じ日テレの『news zero』で、青井くんもフジの『イット!』とそれぞれ帯番組のキャスターになっている。スタートからして私とは全然違いましたからね。
――中途半端に体裁を取り繕っても仕方がない、と。
上重 言わばエリートコースの順風満帆な2人との対比を考えれば、中途半端に「ボチボチ仕事はあります」より、逆に「まったくありません」のほうがおもしろい。なんなら、2人を引き合いにして「僕は仕事がzeroで、イットじゃなくニートです」。ちょっと増えてきたら「zeroからevery.になりました」みたいなことも言えますし。
――誰がそんなところでウマいこと言え、と(笑)。ただでも、そうなると上重さんを慕う直属の後輩などはさぞかし複雑な心境だったのでは? それまで尊敬のまなざしで見ていた先輩が、各所で唐突に“自虐”を解禁し始めたわけですから。
上重 なかには真意を見抜いて「上重さんらしい戦略ですね」と言ってくれる子もいましたけど、「悲しいです」「そんなこと言ってほしくなかったです」みたいなことはやっぱり言われましたね。私自身も、先にフリーになった後輩の枡(太一)や青木(源太)の活躍に刺激をもらっていた部分があったので、できることなら格好いい先輩像みたいなものは崩さずにいたかったですけど……そんなに甘くはなかったです。
――しかも、世間の人々にとっての上重さんは、いまなお「あの松坂と投げあったPL学園の元エース」。さらには、“完全試合”も達成した東京六大学リーグからキー局アナへと華麗なる転身を果たした、紛うかたなきエリートでもある。
上重 見られ方としては、きっとそうですよね。だからそれはもう、神様から与えられた試練と言いますか。「フリーでやりたいなら、見栄やプライドは一度ぜんぶ捨てなきゃいけませんよ」というのを求められていたんだ、と思うことにしています。そもそも“自虐”はあくまできっかけであって、その先は実力がすべて。もらったチャンスをしっかりゼロに抑えて、また次に繋げていくことのほうがよっぽど大事ですからね。
――試合に出られなければ、勝負さえできない。“自虐”は言うなれば、「あいつを使いたい」と監督に思わせるための手段のひとつでしかない、と。
上重 そうですね。それにプライドを捨てて自分をさらけ出せば、手を差しのべてくれる人は必ずいる。こんな立場の自分が言うのもおこがましいですが、「世のなかまだまだ捨てたもんじゃない」っていうのは、今回あらためて感じましたから。私自身もここまで紆余曲折、いろいろとありましたけど、優しさであったり、繋がりであったり、いざと言うときに救ってくれるのも結局は人なんだな、って。
――『ダウンタウンDX』での容赦ないイジりも、裏を返せば、愛ですもんね。
上重 実際、あれで仕事も30本近く一気に増えましたから、浜田(雅功)さんには本当に感謝しかないです。実は、局アナ時代も浜田さんと番組でご一緒する機会は一度もなくて。地元が大阪で“ダウンタウン世代”でもある私としても、「とにかく1回は絶対にドツかれよう」と意気込んで臨んだ収録でもあったんです。業界内では「浜田さんにドツかれると売れる」なんてことが、都市伝説的に言われたりもしますしね(笑)。
――「仕事がない」から状況が一変したという意味では現実に御利益もあった。
上重 仕事量はもちろんのこと、内面的な部分でも間違いなく転機にはなりましたね。緊張感のある現場で確かな手ごたえを感じられたことで、充実していた頃の気持ちに立ち戻ることができた、と言いますか。枡というライバルがいて、『ズムサタ』(『ズームイン!!サタデー』)という自分の番組があって、『好きなアナウンサーランキング』でも2位にまでバーンと上がったちょうど10年前。いま振り返っても、あの頃がいちばん一つひとつの仕事とも真っ正面から向きあえていた気がしますね。
――確かに、当時の“上重vs.枡”は、かつての“松坂vs.上重”を彷彿とさせます。
上重 そうなんですよね。そういう構図や生き方を無意識のうちにどこかで求めちゃっているのかな、という感じもします。野球をやっているときは、それこそ「松坂大輔」という存在が、そのまま自分のモチベーションでもあったので。
包み隠さず自分に正直でありたい
――ところで、各種の取材では「収入は局アナだった頃より増えている」といったことまで明け透けに話されていますよね。傍目からは「そこまで来た球ぜんぶを打ち返さなくても…」と思ったりもするのですが、ご自身としては?
上重 うーん。単純にどんなことでも包み隠さずに話す、というスタンスのほうが自分自身がラクなんですよね。「仕事がない」みたいなマイナスのことだけを強調して、プラスの面にはふれないというのも、なんか違うと思いますし、せっかくフリーになったからには、正直に生きたいな、と。会社員のときは、アナウンサーなのに話せないことがあるというのが、すごくフラストレーションでもあったので。
――とはいえ、世間には過去の不祥事、いわゆる“タワマン&ベントレー”の一件を覚えている人も少なくない。包み隠さないことで、逆に「仕事がないとか言っておきながら、しっかり稼いでいるのかよ」という、いらぬ反感も買いそうです。
上重 どんなに評判のラーメン屋さんでも、そこで食べた100人が100人とも「美味しい」と答えるかと言ったら、たぶんそうじゃない。反対に、10人が「マズい」と言ったところで、そのお店が否定されるわけでもないですよね。だったら、全員の「美味しい」を取りに行くために、わざわざ無理して苦しむこともないかな、と。いまの自分にはエゴサーチをして、ネガティブな書き込みに落ち込む時間も惜しいので。
――では、昨今は“リスキリング”といった言葉も巷でよく聞かれます。上重さんご自身が、今後のために身につけたいスキルなどはありますか?
上重 フリーになって半年ちょっとなので、いまはとにかく自分の持てる能力を試す時期だと思っています。もっとも、遠からず壁にはブチ当たるでしょうし、そのための準備は常にしておく必要はある。でも球種を覚えようとか、違う引き出しを増やしていこうとかって対応は、その壁を感じてからでも遅くはないかな、と。それよりも、まずは求められた場所で「自分のこれを見てください」という、いちばん自信のあるボールを投げること。後々悔いを残さないためにも、なによりそれが大事かなって。
――まさに野球と同じですね。
上重 毎日投げ込みを続けていれば、昨日までの140キロが、今日には142キロに伸びているなんてこともザラにある。こういった取材もたとえ同じようなことを話しても、1ヶ月前とは洗練のされ方って、やっぱり違いますからね。頭の回転や言語化能力に関しては、衰えゆく身体と違って40代でもまだまだ発展の余地はある。そこを研ぎ澄ましていくためにも、いまは自信のあるところにどんどん投げ込む以外にないのかな、って。野球をやっていた頃の私は、球数を投げてナンボの投手でもあったので(笑)。
※さらに後編では、44歳を迎えてふたたび立った甲子園のマウンドや、松坂世代の“戦友”たちに対する思いも。フリーとして目指す“野望”についても赤裸々に語ってくれました。
鈴木 長月(すずきちょうげつ)/1979年、大阪府生まれ。関西学院大学卒。実話誌の編集を経て、ライターとして独立。現在は、スポーツや映画・アニメから、歴史・グルメまで、あらゆる分野で雑文を書き散らす日々。趣味はプロ野球観戦とお城巡り。本サイトでは「昭和プロ野球 伝説の「10・19」秘話 閑古鳥の鳴く川崎球場が日本でいちばん熱かった日」「男の日帰り“ちょい”城旅<神奈川県小田原 前編・後編>」「JR東日本の『どこかにビューーン!』で、ビューンと出かけてみた結果」を執筆している。「米・エミー賞総ナメ『SHOGUN 将軍』で話題! 年末年始に一気見したい真田広之のハリウッド出演作4選」