ソフトバンク・和田毅投手の引退表明によって、NPBの現役選手はついにゼロ。2024年は一時代を築いたあの“松坂世代”にとっても、大きな節目となりました。そこで今回は、この秋、26年ぶりに甲子園のマウンドにも上がった上重聡さんにインタビュー。40代を迎えたいまだからこそ見えてきた「なるとは思ってもみなかった」アナウンサーとしてのやりがいと矜持。フリーランスとして目指す未来を、ご本人に聞きました。
文/鈴木長月
上重聡さん プロフィール
かみしげ・さとし/1980年5月2日、大阪府八尾市生まれ。地元の強豪『八尾フレンド」から平石洋介(元楽天)とともにPL学園入り。98年夏の準々決勝、松坂大輔擁する横浜高との延長17回の死闘で名を馳せた。その後、立教大では、六大学史上2人目の完全試合を達成も、プロ入りを断念。この春、21年勤めた日本テレビを退社し、フリーアナウンサーに。
助けてくれたのもやっぱり野球
――つい先日、11月10日に開催された『マスターズ甲子園2024』では、徳島・鳴門渦潮のOBチームを相手に堂々の120キロ。打者4人を抑えられていましたね。
上重 いまあのマウンドに立ったらどんな風景が見えるんだろうと、ふと思ってから3年目にして、今年ようやく立つことができて。おかげで身体はボロボロですけど、「甲子園っていいな」というのは、あらためて感じましたね。当時は気づく余裕すらなかったブラスバンドの音色や人文字なんかも、すごく素敵で。時代が流れていろんなことが移ろいでも、ドキドキ感は変わらない。やっぱりそういう場所なんだな、って。
――26年前に自分が何をしていたかなんて、とんと思い出せないのに、1998年のあの夏、あの準々決勝だけは、いまだに鮮明に覚えている。高校野球ファンにとっては、それぐらい歴史的な一戦でもありましたからね。
上重 おかげさまで、毎年甲子園の季節になると、ホームランを打たれてガックリ膝をつくシーンがどこかしらで決まって流れるので、私の感覚からすると、かれこれ100本近くは打たれている。あまりにも“名刺代わり”になりすぎて、なんなら、自分のLINEのアイコンもあの写真にしているくらいです(笑)。もちろん、自分の人生においてもそれぐらい色濃い瞬間が、こうしてずっとみなさんのなかにも共有され続けているというのは、本当にありがたいことでもありますけどね。
――あの時点では上重さんご自身も当然、立教大を経て4年後のドラフトでプロ野球へ、という“未来”を思い描いていたわけですもんね。
上重 そうですね。アナウンサーになるなんて、本当に思ってもいませんでしたし、そういう専門の勉強をしていたわけでもなかったので、入社1年目なんかは、とにかく必死。実力のなさを痛感させられるばかりの日々でしたね。
――子どもの頃から脇目も振らずに目指してきた道が閉ざされるというのは、人によっては道を踏み外しかねない大きな挫折でもありますしね。
上重 ただ、そういうときでも助けになってくれたのは、やっぱり野球だったんですよね。球場に行っても、プロでやっている当時のメンバーがスッと自分だけ取材させてくれたり、今は、たとえばYouTube『上原浩治さんの雑草魂』の進行役を任せてもらえていたりするのも“松坂世代”の縁。あの年準優勝した京都成章のキャプテン・澤井芳信くんが、上原さんの所属する『スポーツバックス』の社長だったおかげなので。
――そういう意味でも、野球経験者でこれほどの知名度と経験を備えたアナウンサーは上重さん以外には見当たらない。ニーズの細分化で、BSの『ダグアウト!!!』(BSジャパン)のような、マニアックな番組もこれからどんどん増えそうです。
上重 それはおっしゃる通りで、「上重を置いておけばうまく回る」みたいな信頼感は、やっぱり大事にしていきたいとは思います。たとえば、“ボーク”についてみんなでトークをするとなっても、たぶんそれって、「ある程度は野球に詳しい」からさらに一段上のレベルじゃないとそこまで深みは出てこない。そういう場面で求められたパフォーマンスができる、っていうのが自分の武器であり、強みだとも思うので。
性分として“怪物”にこそ挑みたい
――ちなみに、日本テレビへの入社当時にぼんやりとでも思い描いていた「40歳」というのは、ご自身ではどんなイメージでしたか?
上重 やっぱり羽鳥(慎一)さんという目標とすべき大先輩が身近にいらっしゃったので、当時の看板番組でもあった『ズームイン』(『ズームイン!!SUPER』)のMCをゆくゆくは自分が引き継いで、その後はフリーに……みたいな、ことは考えていた気がします。今回の退社も、元をただせばその頃の想いとも地続きだったりしますしね。思い描いていた通りとはいかなくても、そこに近づく努力をイチからするのもアリかなって。
――ここから先を考えたときのゴールはどのあたりに?
上重 何をもって“天下”とするかは人それぞれに違うとは思いますけど、アナウンサーとして天下を獲りにいく以上は、情報番組のMCを目指したい。それこそ、かつての『ズームイン』や、羽鳥さんがやられている『羽鳥慎一 モーニングショー』のような自分の名前を冠した帯番組っていうのは、最終目標としてありますね。
――立大&日テレの大先輩には、徳光和夫さんというスーパーレジェンドもいます。路線バスで居眠りしている姿が番組の売りにもなってしまうわけですから、目指すべきゴールとして、あれほど“アガリ”な人もいない気はします。
上重 本当そうですよね。……とか言っちゃいけないですけど、本当そうですね(笑)。そう言えば、横浜戦が終わってバックヤードでインタビューを受けているときに、号泣しながら入ってきたヘンなおじさんがいるなと思っていたら、それが実は徳光さんで。私が立教に行くことを知ってくださっていたみたいで、「がんばれよー!」とそこで握手をしてもらったのは、いまでもすごく覚えています。その後、日テレに入って、アナウンサーにもなったわけですから、思えばこれも不思議な縁ですよね。
――実際に徳光さんに取材をさせていただいたことがありますが、流れるようにエピソードを話されて、“立て板に水”とはこのことかと、感嘆するばかりでした。
上重 さっき私も「洗練のされ方が違う」と言いましたけど、徳光さんクラスになると、話にもまったくの無駄がない。年齢を重ねたからこそできる話芸の凄味みたいなものを、あの方を見ているとすごく感じます。つい先日も「カルボナーラを頼もうと思ったら、ボラギノールって言っちゃった」みたいな、どこまで本当かわかんない、よくできた話で、会場をドカーンと笑わせる姿を私も目の当たりにしました(笑)。
――その光景が、目に浮かぶようです。
上重 ただでも、会うといまでも「上重、仕事は大丈夫か」「何かあるか」と声をかけてくださいますし、たまたま上原さんと会ったときでさえ「ウチの上重よろしくな」と、さりなげない気づかいを忘れない。人柄であったり、謙虚さであったり、長く続けてこられている方には「この人と仕事をしたい」と思わせる理由がちゃんとある。そこは私もしっかり見習っていかないとな、とは思います。
――ちなみに、いま現在の上重さんに、松坂さんや枡アナのような“ライバル”は?
上重 いまはそこまでの余裕がまだないので、まずは自分がライバルとしてまわりに認めてもらえる存在になることですかね。ただやっぱり、自分は相手が強敵であればあるほど燃えると言いますか、どうしても“怪物”に向かっていきたい性分なので。そういう意味でも、目標は誰かと聞かれたら、そこはこの世界の“怪物”でもある羽鳥さんやTBSの安住(紳一郎)さんになってくるのかな、と。
――そのための研究などを日々されていたりするのですか?
上重 録画しておいた番組を観ながら、「この流れからこんな持っていき方をするんだ」と気になったところをノートに書き溜めるみたいな作業は、いまもずっと続けています。それこそ、この場面で羽鳥さんはこういう回し方をしていたな、とか、安住さんはこう言った、とか。そういう技術を研究するのは、わりと自分でも好きなので。
――安住さんはいまも局アナですが、個人的な接点も?
上重 一度食事をさせていただいたときに「テレビ離れと言われる世のなかだからこそ、もう一度、テレビの力を見せたいんだ」とおっしゃっていて。その言葉がすごく格好よくて。常にテレビが話題の中心だった世代のひとりとして、安住さんが言うところのテレビの役割の一端を担える存在にはなりたいな、とは思っています。私自身、アナウンサーになったのも、小さい頃からテレビが大好きだったからですしね。
全員引退“松坂世代”とこれから
――ところで、ソフトバンク・和田毅投手の引退で、NPBの現役選手としては“松坂世代”もついにゼロに。世代の一員としてはやはり思うところもありますか?
上重 和田からは直接電話をもらって、「夏ぐらいにはもう決めていた」というのは聞きました。40歳のことを“不惑”だなんて言いますけど、実際は私たちの年代ぐらいがちょうどそれぞれに次のフェーズに入って、迷いや悩みも出てくる時期。新たな一歩を踏みだしたばかりの私としては、逆にホッとすると言いますか、自分ひとりじゃないんだと心強さを感じる部分も正直、あったりはしますよね。
――自分の置かれた境遇を、同世代とつい比べる、みたいなことも?
上重 あくまでも仲間・戦友だと思っているので、人と比べてどうとかってことは、基本的にはないですよ。ただ、格好をつけた言い方をすると、「あの延長戦は舞台を人生に移していまも続いてる」みたいな感覚はどこかにある。世代のみんながそれぞれに刺激になって、最終的には「やっぱり松坂世代って最後まですごかったね」と言われるのがいちばんの理想って気はします。せっかくすごいメンツがそろっているのに「あの試合、あの大会はすごかったね」だけで終わらせるのはもったいないなって。
――それこそ当時の4番打者だった古畑和彦さんの長男・雄大選手は、“ライバル”横浜高校で将来を嘱望されるなど、盟友たちの子どもの世代もすでに世に出つつあります。
上重 別に結婚願望がないわけではないんですよ? 古畑を含めて、その手の話はここ数年で本当によく聞くようになってきましたし、子どもとキャッチボール、みたいなことへの憧れは私にだってもちろんある。でもこればっかりは本当にタイミングと言いますか、まずは相手がいないと始まらない話ですからね。なかばあきらめの境地に入りつつある、というのが正直なところではありますね(笑)。
――家庭があると、たとえ仕事がうまくいかないことがあっても「いまはちょっと子どもが…」などと、ある面ではそれを言い訳にもできてしまう。独身の上重さんには“自由”がある反面、それができないしんどさもまた、あるのでは?
上重 確かに。全責任を負うのは自分ひとりで、どこにも逃げ場がないと言いますか。帯状疱疹もそれでなったようなものですしね(笑)。しかも、この先はもう「仕事がありません」作戦も使えない。だからこそ、これまで以上にいまある一つひとつの仕事をもっと大事に、次に繋げていかないといけないな、とは思います。もっとも、明日どうなるかわからないこの緊張感こそ、自分が求めていたものでもあったりはするので、それはそれとして楽しみながら全力投球をしていけたらって感じですかね。
――現状、地上波のレギュラー番組と言うと、退社前から出演されていた『シューイチ』の名物企画、ロバート秋山竜次さん、アルコ&ピース平子祐希さんによる人気コーナー「体格ブラザーズ」ぐらいですか?
上重 そうですね。“テレビの力”とか言いつつ、あんまり出れてないのがお恥ずかしいかぎりではありますが……(笑)。とはいえ、9月に茨城・日立市で開催されたコラボイベント『ひたち盆FIRE2024 with体格祭』に6万人もの人が集まったというのは、テレビでの発信によるところもかなりある。あのコーナーの印象度は世間一般にもすごく高いみたいで、実は今度「体格ブラザーズ」だけで1時間の特番にもなりますしね。
――では最後に、2025年はどんな年にしたいですか?
上重 自分自身に制限はかけたくないので、これからも「求められるのであれば、なんだってやる」というスタンスは変えずにやっていくつもりです。とはいえ、いい成績を1年残したからってそれはまだ本物じゃないと思いますし、“2年目のジンクス”に陥らないともかぎらない。そういう意味でも、「続ける」というのが、ひとつ大きなテーマにはなるのかな、と。そのなかで、「何回使ってもまた新しいものが出てくるな」といかに思ってもらえるか。個人的にも、来年こそが勝負の年とは思っています。
鈴木 長月(すずきちょうげつ)/1979年、大阪府生まれ。関西学院大学卒。実話誌の編集を経て、ライターとして独立。現在は、スポーツや映画・アニメから、歴史・グルメまで、あらゆる分野で雑文を書き散らす日々。趣味はプロ野球観戦とお城巡り。本サイトでは「昭和プロ野球 伝説の「10・19」秘話 閑古鳥の鳴く川崎球場が日本でいちばん熱かった日」「男の日帰り“ちょい”城旅<神奈川県小田原 前編・後編>」「JR東日本の『どこかにビューーン!』で、ビューンと出かけてみた結果」を執筆している。「米・エミー総ナメ『SHOGUN 将軍』で話題! 年末年始に一気見したい真田広之のハリウッド出演作4選」