1983年夏 第65回大会 準決勝 池田(徳島)-PL学園(大阪)
池 田 000000000000 0
PL学園 04110000010× 7
昭和の名試合として語り継がれる池田―PL学園戦。この試合のキーワードは「ジャイアントキリング(大金星)」と、「世代交代」。
負け知らずの池田に対して桑田・清原の1年生コンビ(KKコンビ)が主力のPL学園が挑み、まさかの勝利をつかみ取る。
なぜ「まさか」なのか。
当時のPL学園は池田の格下のチーム力という印象。その印象(格の違いなど)を振り返るためにも、この試合を迎えるまでの前段を交えて紹介します。
猛打爆発の「やまびこ打線」で甲子園に旋風
池田とPL学園の世紀の一戦が行われる1年前、1982年の夏の甲子園(第64回大会)。この大会は早稲田実(東京)の荒木大輔投手が3年生を迎えた最後の夏でした。
人気チームの早実が悲願の優勝なるかと注目を集めるなか、そこに立ちはだかったのが池田でした。準々決勝で対戦し池田の打線が爆発。14-2で大勝します。
決勝に勝ち上がった池田は広島商と対戦。ここでも猛打がさく裂し12-2の完勝で初の全国制覇を成し遂げます。パワーあふれる攻撃野球で決勝までの全6試合を“横綱相撲”で圧倒。「戦後の全優勝校と比べても五指に入る強さ」と称えられました。
池田の見せつけた重量級の打線はいつしか「やまびこ打線」と呼ばれるようになります。
メンバーが入れ替わった翌春も池田のパワー野球は健在
翌春、1983年のセンバツ大会(第55回大会)にも池田は出場します。
高校野球は年度ごとに部員が入れ替わる(3年生部員が引退)ので、前チームの戦力、カラーを維持するのが難しいのですが、池田には江上光治新主将と水野雄仁投手など前年夏のレギュラー組が主力として残り、かつ有望な新レギュラーメンバーが加わって戦力充実「やまびこ打線」は健在でした。
決勝では横浜商(神奈川)を3-0で退け、夏春連覇を達成します。この記録は戦後では1960年夏、61年春に優勝した法政二(神奈川)に次ぐ快挙です。
先述したように戦力が入れ替わる夏から春の連覇は、同じチーム(戦力)で挑む春夏連覇より難しいと評する声もあります。春夏連覇は7校8回(大阪桐蔭が2回)が達成していますが、対して夏春連覇は4校で、戦後から現在まで数えるとこの2校しか達成していません。
名勝負前夜、前評判は池田有利
そして夏の大会(第65回大会)を迎えます。
大会の焦点は池田の動向です。
前年の夏の大会からの2連覇と、この年の春の優勝と合わせた史上初の3季連続制覇がかかっていました。
朝日新聞の記者座談会での下馬評は、
エース兼主力打者でもある水野投手は「力に加えて投球術を覚え、より安定してきた」と、
打線は「甲子園を自分の庭のように思っているし、売り物のパワフル野球は健在」と評され、参加49チームの監督に行ったアンケートでも、30人の監督から池田が「優勝の第一候補」という票が入るほどダントツの優勝候補でした。
一方、PL学園は2人の監督から票が入りましたが、ほとんど無印の存在でした。
勝ち上がる両チーム
全チームからマークされる王者・池田と、地力はあるものの全国的な注目を浴びないPL学園。対照的な両チームは、順調に駒を進め、準決勝で対戦します。
準決勝前日の朝日新聞の試合の見どころではこんなことが書かれていました。
「投、打ともに力は池田が上だ。<中略>(PL学園は)2点、1点は取れそうな気がするが、それにしても桑田(真澄)ら投手陣の踏ん張りがないと……」
この時期はKKコンビ(桑田真澄選手と清原和博選手)を甲子園スターとしてフィーチャーする記事はなく、「PLの1年生に良い選手がいる」という程度の認識が一般的でした。
池田の決勝進出はもはや決定的、準決勝のPL学園戦はその通過点でしかない、そんな雰囲気で試合が始まります。ファンをはじめ、みんな前人未到の3季連続制覇の大記録達成を目撃したかったのかもしれません。
誰もが予想しなかった展開で水野投手が首をかしげる
池田―PL学園戦。この試合で新たな甲子園ヒーローが生まれます。それが当時1年生の桑田真澄投手です。
試合が動いたのは2回裏、PL学園の攻撃。一死から5番・朝山選手が四球で出塁。二死となって7番小島選手が水野投手の速球を右中間二塁打して1点を先制します。続く8番で先発投手の桑田選手(背番号11)は、内角高めの直球を左翼席へ痛烈な本塁打を放ちます。
桑田選手は試合後、
「一発狙ったろ思うてた。水野さんの球は軽くてスピードがない感じやった」
「(自分は)体力がないから、ヒットでランナーになるよりホームランでゆっくりした方がええと思った」
など、1年生とは思えぬ強心臓ぶりのコメントを残しています。
さらに9番住田選手も水野投手のスライダーを左翼ラッキーゾーンへ打ち込んで、一気に4点を奪います。
それまで公式戦で1本も本塁打を打たれていなかった池田のエース水野投手。それが立て続けに2本連続の被本塁打。立ち上がりは球が走っていただけにショックは大きかったようです。
さらに4回裏には7番小島選手にも本塁打され、まさかの1試合3本の本塁打を浴びます。
マウンド上で首をかしげる水野投手。激励に駆け寄るナインの動作もぎこちない様子。どの顔にも「まさか」という驚きの表情が浮かんでいました。池田の主将で3番打者の江上選手は「やばいと思った」という一打でした。
PL学園の1年生・桑田投手は1回表、池田の攻撃で2死から江上選手、水野選手の3、4番にヒットを打たれて「3回もつかなあ」と思ったそうですが、次の打者をピッチャーゴロに打ち取り、落ち着いたとのちにコメントしています。しかも偶然、打球がグラブに入って運がよかったという発言もあります。
その後、2回に自ら放った本塁打もきっかけとなり、波に乗ります。あぶなげない投球を続け、終わってみれば5安打散発で完封。守備陣が、3つのダブルプレーやフェンス際のファインプレーなどで1年生投手を盛り立てたことも勝利につながりました。
池田ナインはもちろんPL学園のナインも思いもよらなかったという勝利。
池田の江上主将は試合後「もう一度試合がしたい PLと…。絶対に勝ちたい」と、瞳をにじませて甲子園を去りました。
以後「やまびこ打線」に代わり、「KKコンビ」が高校球界の主役になりました。まさに世代交代の一戦でした。
ちなみに清原選手は1年生4番打者としてこの大会の話題でした。彼は次の決勝で甲子園初アーチを記録して、ここから甲子園通算本塁打の記録(春夏通算13本)を残します。
余談ですが、
のちに池田の江上さんにこの試合を振りかえってもらうと、敗因は「油断でした」と即答。
相手は1年生投手「ちょっといい球投げるけど、この程度の投手ならいつでも逆転できる」そんな気持ちがあったそうです。
そうして回を追うごとに焦りが大きくなり、最後まで流れをつかめなかったと言います。
また、この当時は試合に勝つごとに組み合わせ抽選をしていました。くじを引くのは主将の江上さんの役割。対戦校を決めて帰ってくると宿舎でいつも水野投手に怒られていたそうです。
対戦相手が「強いところばかり引いてきやがって」という思いからでした。
ところがPL学園戦を決めて帰ってきたときは「よくやった」と初めてほめてもらったそうです。
振り返れば「ナイン全員がPL学園をなめていたんだと思います」と語ってくれました。