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歴史に残る昭和の甲子園伝説1 雨中の延長12回、打倒江川に燃えた銚子商、執念のサヨナラ勝ち

歴史に残る昭和の甲子園伝説1 雨中の延長12回、打倒江川に燃えた銚子商、執念のサヨナラ勝ち

1973年夏 第55回大会 2回戦 作新学院(栃木)-銚子商(千葉)
作新学院 000000000000  0
銚子商   000000000001  1 
延長12回

「怪物」の異名をとり、現在でも高校野球史上ナンバー1投手と評される作新学院(栃木)・江川卓投手と、打倒江川に燃える強豪・銚子商(千葉)の試合を江川投手の怪物伝説の軌跡を交えて振り返ります。あの夏、江川投手が見たくて、みんな部屋でテレビ観戦していたせいで、クーラーの使用率が上がり、電力供給がパンクしたとか……。

写真:日刊スポーツ/アフロ

初めて江川投手と対戦した銚子商の衝撃

両校が甲子園で戦う9か月前の1972年11月。千葉県銚子市で開催された秋の関東大会の準決勝。
この試合で勝てば翌春のセンバツの出場が当確するという大事な試合で、初めて江川投手と銚子商は対戦します。
銚子は熱烈な野球ファンの多い土地柄。地元開催ということもあり、球場には銚子商の名物・強打で知られる“黒潮打線”の爆発を期待して市民が詰めかけました。

ところが観客の度肝を抜いたのは作新学院の江川投手でした。黒潮打線は江川投手の豪速球に手も足も出ず、わずか1安打で、あわやノーヒットノーランの完敗。三振は20個も奪われました。
この大会、作新学院は優勝し、翌春のセンバツ出場を果たします。ちなみに決勝の相手は横浜(神奈川)で、江川投手は16奪三振で完封しました。

江川伝説を語ると「高校2年の秋が一番速かった」と、さまざまなメディアで評されるのが、この大会の江川投手のことです。

「怪物江川」が全国デビュー

1973年春、江川投手は初めて甲子園に出場しました。110イニング連続無失点記録を作った投手の評判はすでに全国に轟いていて、噂の選手を一目見ようと多くのファンが甲子園球場に詰めかけました。出場した選手によると野球ファンだけでなく、出場チームのほとんどがスタンドから見ていたそうです。

開幕試合から登場し、相手は優勝候補の北陽(大阪)。強豪相手に19奪三振の完封でした。初めて江川投手のボールをバットに当てたのは5番打者。バックネットにファールした瞬間、球場がざわつきました。
のちに、その様子を球場で見ていた新聞記者は「ファールしただけであんなに歓声が沸く投手なんてその後も見たことがない」と振り返っていました。

その後も江川投手は対戦相手を圧倒し、準々決勝の今治西戦では20奪三振を記録。準決勝で広島商に惜敗しましたが、4試合(北陽、小倉南、今治西、広島商)で被安打は8本、センバツ史上最多となる大会通算60三振を奪いました。この記録は現在もセンバツの大会記録です。

ちなみにこの大会のセンバツで優勝したのは、関東大会で江川投手が16奪三振で完封した横浜でした。

夏、圧倒的な力で県大会を勝ち上がった江川投手

全国制覇に届かなかった江川投手擁する作新学院は、その雪辱を果たすべく夏にも甲子園に帰ってきました。
栃木大会で江川投手は5試合登板してノーヒットノーラン3回、打たれた安打はたった2本という記録をひっさげて甲子園入り。話題は作新学院の優勝なるか、あるいは江川攻略はどこのチームか……。江川投手に注目が集まりました。

初戦の柳川商(福岡)戦は、柳川商ナインが食い下がり、苦戦を強いられます。3時間半におよぶ激闘15回。かろうじて2対1のサヨナラ勝ちで勝ち進みました。江川投手の奪三振は23個でした。当時の有識者によれば「春に比べて調子が上がっていない」という評価はありましたが、非凡な才能は健在です。

5度目の対戦となった銚子商の思い

2回戦の相手は銚子商です。関東の強豪チームとして知られていた銚子商ですが、昨秋のあの大会以降、江川・作新には一度も勝ったことがありませんでした。練習試合を含め合計4度対戦してすべて江川投手の作新学院が勝利しています。
猛練習を続けてきた銚子商にとって打倒江川の集大成がこの試合だったのです。

いざ開戦! 作新学院対銚子商

内外野を埋めた超満員の観衆が見つめる中、試合が始まりました。
銚子商の2年生エース・土屋正勝さんは勝てないなら負けなければいいと「18回(当時の延長制限で引き分け再試合になる)を0点で抑える」と決意してマウンドに立ちました。

この日の江川投手は球が走っておらず、それを補うように変化球を駆使して打者と勝負します。そんな江川投手のわずかな調子の変化をこれまで4度対戦している銚子商ナインは見逃しませんでした。
2、3回で安打の走者を塁上に送り、6回には無死で安打の走者を送り、さらに7回には連続安打を放つなどたびたび得点機をつかんで試合の主導権を握ります。それでも江川投手から1点を奪えません。

作新学院の打線は土屋投手の速球、カーブを攻略できず、散発を重ねます。二塁に走者を進めたのは4、6、9回だけでした。
見ごたえのある投手戦でスコアボードに0がずらりと並び、延長に突入します。

10回裏、銚子商に決定的な場面が訪れます。三塁打を放った磯村選手が作新学院の内野陣の好判断で挟殺アウト。貴重な好機を逸したあと、打者長谷川選手が右前安打。二塁走者多部田選手は三塁ベースを蹴って本塁に突っ込みます。タイミングは悠々ホームイン、「これでサヨナラか…」と思われましたが、本塁を守る小倉(現姓亀岡)捕手ががっちりブロックして憤死。守備で江川投手を盛り立てます。

走者の多部田選手は突入時に右目上を裂傷しますが5分間の手当てで守備につくと、スタンドからその気力をたたえる拍手が起きました。
12回裏、銚子商の攻撃。途中から降り始めた雨は延長に入って勢いを増し、この頃になると土砂降りになっていました。それでも超満員の観衆はびしょぬれになりながらも席を立つ人はいませんでした。

2つの四球と安打で1死満塁となります。
迎える打者は2番長谷川選手。カウントは3ボール2ストライクになります。フルカウントとなって銚子商の斉藤監督から「ストライクスクイズ」のサインが出ます。

次の投球がボールなら押し出しで銚子商のサヨナラ勝ちです。ストライクならスクイズ敢行。その打球がファールならスリーバント失敗でアウト。飛び出した走者も挟殺されるかもしれません。フェアグランドに飛んでもフライならアウトの可能性が高いです。でも転がしたら雨中のグラウンドで打球の行方は予測しにくい、捕球も難しいのでサヨナラになる可能性は高い……。そんな思惑が銚子商ベンチにありました。
一方、そんな絶体絶命の場面で江川投手はタイムをかけます。集まった内野陣にこう問います。

「思い切って好きな球を投げていいか」

内野陣は即答します。

「おまえのおかげでここまで来られたんだ。好きな球を投げろ」

江川投手一人が注目され続けたチームが最後にひとつになりました。
雨が降りしきるなか、小倉捕手は江川投手に新しいボールを渡します。交換したばかりの白球を手にして江川投手は振りかぶります。
渾身の投球は高目に浮いて「ボール」。
押し出しの三塁走者磯村選手は、高々と両手をあげて拍手をしながらホームへ。こうしてサヨナラ決着となり、「怪物江川」は甲子園を去りました。

敗戦したけど、江川投手の表情は明るかったようです。チームとの友情がうれしかったといいます。
この日の投球回数11回1/3、打者47、安打11、三振9、四死球5、自責点1。
この夏の大会2試合で奪三振は32個。
この大会は調子が良くないと評された江川投手でしたが非凡な記録を残しました。

雪辱を果たした銚子商の斎藤監督の試合後のコメントです。
「江川へのライバル意識でここまで成長できた」

余談ですが
この大会の銚子商はベスト8まで勝ち進みました。
そして翌夏には悲願の全国制覇を果たします。この時のチームの4番打者はのちに巨人で活躍した篠塚選手がいました。
作新学院戦で好投した2年生・土屋投手は翌夏もエースとしてけん引し、優勝の立役者となります。

後年、青春時代を振り返り土屋さんは、次のように語りました。
前年に打倒江川で猛練習をしたおかげでチーム力が上がり、それが翌夏の結果につながったと、

「だから優勝できたのは江川さんのおかげなんです」

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