スペイン北西部を横断する、世界遺産サンティアゴ巡礼路。全長約800kmを歩くこの道は、信仰の歴史を持ちながら、今では世界中の旅人を惹きつける“美食の道”でもあります。ピレネーを越え、バルで味わうピンチョス、ワインの泉で交わす一杯、アルベルゲのキッチンで作る素朴な料理、そしてゴールで味わう修道院菓子――。この巡礼路に魅せられ、一人で、家族で、何度も歩いたアウトドアガイド・藤井憲一郎さんが「大人にこそすすめたい旅」として、その魅力をレポートします。
旅した人:藤井憲一郎(ふじい・けんいちろう)さん

八ヶ岳南麓・標高1000mの林の中に暮らすアウトドアガイド。「ひといき荘アウトドアサービス」代表。トレッキングやカヤック、スノーシュートレッキング、ペット同行のアウトドアツアーなどを案内。
熊野古道と並ぶ道の世界遺産・サンティアゴ巡礼路

サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路(カミーノ・デ・サンティアゴ)。 スペイン北西部ガリシア州にある聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂を目指すこの道は、9世紀に聖ヤコブの遺骸が発見されたことに始まり、ヨーロッパ中から巡礼者が集う信仰の道として発展しました。
その長い歴史をもつ巡礼路を歩く人の数は、1993年には約10万人でしたが、2023年には年間約44万人と4倍以上に増えています。かつては信仰を胸にした巡礼者が中心でしたが、近年は宗教的な理由に限らず、さまざまな思いを抱いた人々がこの道を選ぶようになりました。

(出典:French Ways of St. James.svg by Manel, CC BY-SA 3.0)
道そのものが世界遺産に登録されている点も特徴で、日本の熊野古道と並び、世界で数少ない「道の世界遺産」のひとつです。どちらも、ただの移動手段ではなく、祈りと文化が刻まれた「生きた歴史」。カミーノ(巡礼)は宗教的な意味を超え、文化・自然・人との出会いを楽しむ旅として、現代では世界中の人々に愛されています。
800㎞の道のりも何度も歩きたくなるその理由とは?

私が初めてこの道を歩いたのは2003年、まずは独りで。2度目は2010年、新婚旅行で妻と共にサンジャン・ピエドポーから約1ヶ月半。全行程は約800km。さらに2013年から16年にかけて70代後半の先輩女性と4回に分けて800kmを歩き、2019年にはブルゴスからスタートし、残り約490kmを自転車で走破。2024年には息子2人と家族でレオンから、約310kmの道のりを楽しみました。
距離だけを見ると過酷な旅をイメージされる方もいるかもしれませんが、歩くたびに楽しく、そしてすべての旅が「食」と深く結びついた記憶です。今回は特に思い出深い食の思い出をエリア別にご紹介したいと思います。
ピレネーを越えて――フランスからスペインへ、パンプローナのバルでひと息
朝靄の中、フランス側の巡礼路の起点・サンジャン・ピエドポーを出発します。
ピレネー山脈を越える長い上りを終えると、いつの間にか国境を越え、スペインに入っています。空気が変わり、バスク地方特有の活気が感じられます。
最初の大きな街が、牛追い祭りやヘミングウェイで知られるナバラ州・パンプローナです。
この街の楽しみといえば、やはりバル巡り。カウンターに並ぶ色とりどりのピンチョスに、歩き疲れも一気に吹き飛びます。
「今日はピンチョスの日にしよう」
そう言って妻と笑いながら、何軒もバルをはしごしました。生ハム、アンチョビ、オリーブ、トルティージャ、イカのソテー、クリームチーズとクルミをのせたものまで、どれも素朴で力強い味です。カウンター越しに、地元の人から「ブエン・カミーノ!(良い巡礼を!)」と声をかけられるのも、この街ならではの光景でした。
長く歩いていると、どうしても疲れから気持ちがささくれることもあります。それでも、きちんとした食事にありつくと、不思議なほど気分が切り替わります。巡礼者であることを証明するクレデンシャル(巡礼手帳)にスタンプを押し、また次の町へ向かう――そんな小さな儀式が、旅を続ける力になります。
蛇口からワイン!ボデガス・イラーチェの「ワインの泉」

ワインの泉。蛇口をひねるとワインが流れ出す
パンプローナを後にして歩き続けると、ナバラ州エステージャ近郊にあるボデガス・イラーチェに到着します。ここには、巡礼者の間で有名な「ワインの泉」があります。
蛇口をひねると赤ワインが流れ出し、巡礼者は無料で一口楽しむことができます。中世の修道院に由来する「もてなし」の精神を、現代に伝える象徴的な場所です。
見知らぬ巡礼者同士がグラスを掲げ、「ブエン・カミーノ!(良い巡礼を!)」と声を掛け合う。その一瞬で、これまでの疲れがふっと軽くなるのを感じました。
宿のキッチンで家族で自炊も

巡礼者を対象とした宿であるアルベルゲには、キッチンが備えられていることも少なくありません。
2003年の独り旅では、野菜不足を補うために生野菜をかじる日もしばしば。2010年の新婚旅行では、節約のために自炊が日常でした。
その後、2人の息子に恵まれ、2024年にはカスティーリャ・イ・レオン州のレオンから、家族で約310kmを歩きました。

料理好きの次男と一緒にキッチンに立ち、ハンバーガーを作った夜のことは、今でもよく覚えています。小さな窓から夕陽が差し込み、焼ける肉の香りに、子どもたちが自然と笑顔になります。

旅の途中で作る料理は、ただの食事ではありません。それは、そのまま家族の記憶になります。
調味料は小分けでは売られていないため、使い切れなかった分はアルベルゲに寄付します。こうしたドネイティボ(寄付)の精神で成り立っているのも、カミーノ(巡礼)の魅力のひとつです。
昼食は、バゲットに生ハムやチーズを挟み、道端で食べることもしばしばでした。暑い日はサラミに替えたり、リンゴをかじったりします。シンプルですが、歩き続ける体には、これ以上ないご馳走です。

前日のレストランで頼んだ赤ワインのフルボトルが飲みきれなかったので、昼から乾杯。
メセタ―カスティーリャ高原の果てしない一本道
カスティーリャ地方のメセタに入ると、風景は一変します。
地平線まで続く一本道。頬をなでる風と、どこまでも青い空。遮るものが何もありません。

この単調な道の途中、小さな集落の入口には、必ずと言っていいほど「ティエンダ」があります。日本で言えば、田舎の何でも屋のような存在です。パンとチーズを買い、店先でかじっていると、別の巡礼者がやってきて、「疲れたね」と笑い合います。

1日の行程は20km前後。同じペースで歩く仲間とは、常に一緒というわけではありませんが、休憩所や宿で自然と再会します。1か月も歩けば、言葉がなくても通じ合う関係が生まれます。目が合えば、それだけでわかるのです。「今日も歩けたね」と。
旅の終盤・ガリシアで海の幸と白ワインを楽しむ
ナバラ州を抜けると、リオハ州に入ります。
空気にワインの気配が混じり、ブドウ畑が広がる景色に、思わず気持ちが高揚します。リオハの赤ワインは、果実味とスパイス感、樽熟成由来のバニラ香が特徴です。肉料理との相性は抜群で、歩き疲れた体に染み渡る一杯でした。ワインを片手に語り合う時間は、カミーノ(巡礼)ならではの贅沢です。
いよいよ旅の終盤、ガリシア地方に入ります。まだ海は見えませんが、巡礼路沿いの飲食店のショーケースには、ペルセベス(亀の手)やプルポ(ゆでだこ)が並びます。オリーブオイルとパプリカの香りが漂い、リアス式海岸が近いことを感じさせます。

茹でたてのタコをどんどん運んできてくれる
その香りに誘われ、アルバリーニョの白ワインを一杯。爽やかな酸味とミネラル感が、海の幸と重なった瞬間、「ここまで歩いてきてよかった」と、心から思いました。

何度も通うとお気に入りのバルが決まってくる。

ゴールで迎えてくれる修道院のタルタ・デ・サンティアゴ
ゴールの街、サンティアゴ・デ・コンポステーラ。大聖堂の鐘が響くこの街で、最後のご褒美がタルタ・デ・サンティアゴ(アーモンドをたっぷり使ったタルト)です。
訪れたのは、Monasterio de San Paio de Antealtares。写真撮影は禁止で、鉄格子横のインターホンを押すと、修道女が静かに迎えてくれます。言葉少ななやり取りで受け取るケーキには、信仰と歴史が詰まっていました。

タルタ・デ・サンティアゴは日持ちがして崩れにくく、大人数への土産にも向いています。街中でも買えますが、修道院製は別格です。その甘さの中に、旅の記憶が溶け込んでいました。
足で歩く旅であり、舌で感じる旅

カミーノ(巡礼)は、足で歩く旅であり、舌で感じる旅です。パンとワイン、海と山の恵み、そして人との食卓。食は巡礼の記憶を彩り、人生を静かに豊かにしてくれます。
修道院のタルタを手にしたとき、私は思いました。「この旅は、まだ終わっていない」。心の中で、カミーノ(巡礼)はこれからも続いていくのです。
文・写真=藤井憲一郎


