三人兄妹の末っ子で、男子66kg級の柔道家である次兄の阿部一二三選手と共に、日本を代表する女子柔道家の阿部詩選手。阿部選手は世界選手権女子52kg級で過去4度優勝を果たし、国際大会でも優勝という戦績を持つ金メダリストです。
2018年の世界柔道選手権大会では、兄妹同日優勝という柔道史上初の快挙を成し遂げました。その後に開催された2021年の国際大会でも、兄・一二三選手と阿部選手は兄妹で金メダルを獲得し、力を発揮してきました。
本稿では、今夏に開催されるパリでの国際大会においても、兄妹同日優勝を狙う阿部選手の選手人生と戦歴を振り返り、強さの秘訣を探っていきます。
阿部選手の生い立ちと戦歴
阿部詩選手と柔道の出会いに遡って、阿部選手の柔道人生をみていきましょう。
兄の背中を追った先にあった柔道
阿部選手は5歳のときに柔道を始めました。きっかけは、もちろん今も背中を追い続ける3歳年上の兄・一二三選手。阿部選手は兄の練習によく付き添っていました。幼少期から活発で素直な性格の阿部選手の目には、その練習風景が輝いて見えたのでしょう。「自身も柔道をやってみたい」と柔道の世界に飛び込みました。
センスのある天才肌とも言われていた阿部選手でしたが、小学6年生のときに出場した全国小学生学年別柔道大会45kg級にて初戦敗退。この試合結果が、負けず嫌いな阿部選手の心に火を点け、今の阿部選手を形成していると言っても過言ではありません。
悔しい思いを胸に刻み、中学校、高校時代は小学生時代よりも真面目に練習に励みました。
中学3年生の時に出場した全国中学校柔道大会で優勝を果たしました。そして成長スピードを緩めることなく、柔道にのめりこんでいきます。
留まることを知らずに成長してきた阿部兄妹
2016年に夙川学院高校へ進学し、阿部選手はさらなる功績を残していきました。高校1年生の4月には全日本カデ柔道体重別選手権大会にて優勝を掴み、12月のシニアの国際大会グランドスラム東京では、史上最年少の16歳141日で決勝へ進出。
その後の大会でも阿部選手は優勝を重ね、団体戦の勝利にも貢献してきました。
高校3年生の9月、世界柔道選手権に兄・一二三選手と共に出場し、史上初の兄妹同時優勝を達成。阿部選手は5試合一本勝ちでの優勝でした。
学生時代も今も、阿部兄妹は共に強くなり、共に勝ち進んでいるのです。
怪物になるために悔しさをバネにする
優勝を目指して戦い続ける阿部選手。
順調に勝ち進んでいるように見えて、それだけではありませんでした。
2019年に開催された柔道グランドスラム大阪で、阿部選手は決勝でフランスのブシャール選手に敗れるという予想外の展開が待っていたのです。
時間無制限の延長戦であるゴールデンスコアに入ったところで、阿部選手が消極的になった一瞬の隙をブシャール選手は見逃しませんでした。
組み合いになった後に、阿部選手の右足をブシャール選手が右足で払い、阿部選手がバランスを崩しました。そして次の瞬間にブシャール選手は素早く姿勢を低くし、阿部選手の右脇下から体の下へ潜り込み、一気に阿部選手を肩へ担いで投げ飛ばしました。これが技ありとなり、阿部選手は敗退してしまいます。
同大会での涙と悔しさをバネにして、2021年の東京での国際大会にてブシャール選手を破り、雪辱を果たしました。
阿部選手は数年間抱えていた両肩の亜脱臼の手術を2021年に行い、柔道の稽古ができないという、またしても悔しい状況に陥りました。それでも阿部選手は「怪物と言われるような強い選手になりたい」という強い思いを諦めることはありませんでした。
そして、諦めずに耐えたことが実り、2023年の世界選手権で再び金メダルを獲得することができたのです。
阿部選手の強さの糧となるもの
柔道の技の種類は投技が68本、固技が32本あり、併せて100本になります。ここからは、阿倍選手の得意技にフォーカスして解説します。柔道の上達を目指している選手や指導者の方は、ぜひ参考にしてみてください。
特技の袖釣込腰の秘密は体幹
日本を代表する女子柔道家、阿部選手の得意技は、袖釣込腰と内股です。
袖釣込腰は、柔道の投技の一種で、相手の釣り手を釣り上げて背負い込み、腰に乗せて前へ投げる技です。ここで、釣り手とは柔道で相手と組み合って襟を持つ方の手を指しますが、袖釣込腰の際には、袖を釣り上げるので袖を持ちます。
阿部選手は右手で組み手を行うため、右半身を力強く前に出すと同時に、相手の釣り手を右手で真上に釣り上げます。そして相手のバランスが崩れた瞬間に素早く背負い込み、腰に乗せて一気に投げ飛ばします。
相手を腰に乗せて背負い込んだり、投げ飛ばしたりする際に自分自身のバランスを崩してしまっては、技は成功しません。
しかし、上記の動画内で阿部選手は自分よりも身長のある男性を背負い込み、投げ飛ばしています。この動画から阿部選手の体軸のバランスが優れていることが分かり、体幹の強さが阿部選手の強さに直結していると言えるでしょう。
そして、この強い体幹は瞬発力を生み出し、相手を豪快に投げ出すことを可能にしています。
内股を掛けるときに意識するのは骨盤
阿部選手のもう一つの特技である内股を解説します。
内股とは、足技の1つです。相手の身体を崩して浮かせ、太ももの裏側を使って相手を投げる技になります。
基本的な内股の入り方は、まず釣り手で相手の釣り手を自分の耳の位置よりも高く釣り上げ、引き手は目の高さまで引き上げます。引き手とは、組み合った際に釣り手ではない方の手を指し、相手の袖を持つ手のことです。
釣り手と引き手の動きを同時に行うことによって相手は前に引っ張られるため、相手の体を浮き上がらせて崩すことができます。
次に、バランスの崩れた相手の体の前に足を踏み出し、自分の体を回転させて相手を投げます。投げる際には自分の太ももの外側を相手の太ももの内側へ沿わせて足を跳ね上げます。
ダイナミックで華やかなこの技。足を跳ね上げるためには、自分の足を高く上げる必要があるため、足が長い選手や身体が柔らかい選手に多く見られます。
基本を踏まえたうえで、以下の動画から阿部選手の内股を見てみましょう。
阿部選手本人の解説でもありましたが、まずは引き手と釣り手をしっかりと前に引いています。そして足を踏み出すというよりも、相手の帯の辺りに自分の骨盤を当てにいっています。骨盤を意識し、身体をより深いところまで相手の身体に寄せていることが分かります。
阿部選手はこの動作をスピーディーかつ力強く行い、相手の身体のバランスをしっかり崩しているため、綺麗に相手を投げることが出来るのだと考えられます。
得意を磨き、実践で魅せることができる高い頭脳と柔道センス
阿部選手の内股には、まだいくつかのポイントがあります。実践で見せる内股は他の選手の内股と大きく異なるのです。1つは相手を崩す際の手。
通常の場合、内股を掛けるときには釣り手は相手の襟を持ち、引き手で袖を持ちます。そして釣り手側の足を跳ね上げるため、阿部選手のように右組みで組み手を行う場合は相手の右足に足を添わせて跳ね上げます。
上記の動画のように実践中の阿部選手は通常の内股と違い、釣り手と引き手どちらも相手の袖を持っています。実は、この組み方は袖釣込腰と同じなのです。
試合で阿部選手と戦う相手は、阿部選手の得意技が袖釣込腰であることを知っています。そのため、組み合うときに両袖を捕まれた相手は袖釣込腰を掛けられまいと警戒し、腰を引いて重心を下に落としています。
しかし、それは阿部選手には効きません。袖釣込腰と見せかけて内股を掛けることができるからです。
本来、内股は相手の身体を浮かせて相手を自分の身体に引き寄せます。そのため重心の落ちている相手を浮かせるのは難しいのですが、阿部選手は相手を浮かせるのではなく、腰の引けた相手の両袖を持って強引に自分自身が相手の懐にグッと素早く入っていきます。
つまり、阿部選手の内股は、得意技の袖釣込腰があってこそ実践で輝くのです。
2つ目は、跳ね上げる足です。実践では内股をすかされてしまい、技が成功しないことも多々あります。そこで阿部選手は内股を掛ける際に釣り手側の右足ではなく、引き手側の左足に沿わせて跳ね上げて、内股すかしを防ぐのです。
このように阿部選手は試合中に相手の動きを見て、瞬時に判断しているのです。相手の動き出しや僅かな心の変化を一瞬も見逃しません。
これらのことは試合中の駆け引きや組み立て方を間違えると成功しません。そのため、阿部選手は試合運びや試合勘が優れており、高い頭脳と抜群のセンスを持つ選手だということになります。
極めるものは柔道の技だけではない
阿部選手は練習中、何度も相手と組み合って打ち込み練習をしたり、柔道の技を繰り出す実践稽古を行ったりしています。しかし、稽古は柔道の技を極めるだけでは終わりません。
基本的な柔道技術の練習を週に6回こなし、週に4回ランニング、ウエイト、階段、サーキットなどのトレーニングを行い、何試合でも勝ち抜けるようなスタミナを養っています。
阿部詩選手が努力できるパワーの根源とは
毎日ひたすら同じことを繰り返す柔道の稽古をしている阿部選手ですが、昔はコツコツ何かに取り組むことは苦手だったそうです。好奇心旺盛な性格の阿部選手は、1つのことを淡々とこなすタイプではありませんでした。
しかし、柔道においてはコツコツと稽古を重ねられるそうです。
それは「強くなりたい」「怪物になりたい」という想いと「柔道といえば阿部詩と言われるような選手になる」という目標、何よりも「柔道が好きだ」という真っ直ぐな気持ちがあるから地道にコツコツと努力を続けられるのだと阿部選手は語ります。
何かを「好きだ」と真っ直ぐに想う強い気持ちは、苦手さえも超えるほどのパワーを与えてくれるのかもしれません。
共に戦い続けてきた兄の存在が阿部選手を強くする
阿部選手が柔道を続けて勝ち抜いてこられたのは、「柔道が好きだ」「強くなりたい」という想いや信念があったからであることに間違いはありません。 しかし、もう一つ大事なものはあります。
それは兄・一二三選手の存在です。 阿部選手の柔道人生には、常に兄である一二三選手がいました。
努力型の兄・一二三選手と天才型の阿部選手。 二人のタイプは対照的ですが、兄妹で優勝したいという同じ目標がありました。 一人では成し遂げられない目標だからこそ、お互いを刺激しあい、強くなれるのでしょう。
阿部選手は今夏に開催される国際大会の出場が内定しており、まずは国際大会2連覇を狙います。また、人間力を高め、応援される選手でいることも阿部選手の目標の1つです。
柔道人生の始まりからずっと一緒に戦い続けてきた兄の存在は、これからも阿部選手を強くしてくれるはずです。今後の活躍にも注目したいです!